[註釈付き日本語訳]一人の日本人留学生が、南京からウルムチまでヒッチハイクした話

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一人の日本人留学生が、南京からウルムチまでヒッチハイクした話

最終的に、私を乗せてくれた17人の運転手のうち、
「日本人だと知って断った」のは、たった1人だけだった。
つまり、“乗せてもいい”と答えた人の94.1%が、私が日本人であることを知った後でも、変わらず善意と助けを選んでくれた

これは世論調査のデータでもなければ、どこかの機関が取ったアンケート結果でもない。
まぎれもなく、日常のなかで人と人とが出会い、交わった「生の反応」である。

私にとって、それはどんな統計データよりも価値がある。
なぜならこれは、私が自分の足で歩き、自分の目で見て、自分の心で感じ取った中国だからだ。

30日以内に、南京からウルムチまで、すべてヒッチハイクで行く。

⎯⎯ 谷河 響(たにかわ・ひびき)


私は日本人だ。日本で生まれ、日本で育ち、日本についてはそれなりに理解しているつもりだ。
しかし、「海外」となると、私はほとんど何も知らなかった。

私は思った。

海外こそが、まったく新しい人生を体験できる最高のチャンスなのではないか。

特に中国のような、広大な国土を持つ国には、きっとまだ見ぬ「世界」がたくさん眠っている。
その思いが、私を中国の地へと踏み出させた。

現在、私は南京大学の新聞・伝播学院(ジャーナリズム&メディア学部)で修士課程を学んでいる。
2025年の冬休み、ようやくある程度の中国語が話せるようになった私は、ある決意を固めた。

30日以内に、南京から新疆まで、すべてヒッチハイクで行ってみよう。

なぜヒッチハイクを選んだのか? 理由は単純だ。
第一に、お金がなかった。
第二に、文化というものは「人」のなかに宿ると私は信じているからだ。

出発

旅に出る前、私は2週間かけて準備を進めた。

まず最初は「ルートの設計」だ。
当初の理想ルートはこうだった:
江蘇省・南京 → 湖北省・武漢 → 重慶 → 四川省 → 貴州省 → 甘粛省・蘭州 → 甘粛省・敦煌 → 新疆ウイグル自治区・哈密 → 吐魯番 → 最終目的地・烏魯木斉(ウルムチ)。

もちろん、これはあくまで予定に過ぎず、ヒッチハイクという手段上、実際の移動経路は常に変更の可能性があった。

次に「装備の準備」。
南京の1月下旬の平均気温は約1度、一方でウルムチの気温はマイナス20度に達する。
私は以下のものを用意した:テント、寝袋、厚手のダウンジャケット、手袋、非常食、撮影機材、マット、中国全図、ノートパソコン、そして旅行資金として1,000元。

最終的にこれらを詰め込むのに、バックパックではなくスーツケースを選んだ。結果的には、これが正解だった。

三つ目は「野宿の事前テスト」だった。
予算に限りがあったため、ネットで安価なキャンプ用品を購入した。239元のテント、55元のマット、250元の寝袋。
出発の2日前、私は大学のサッカー場の芝生で一晩テスト宿泊をしてみた。その夜の気温は1度だった。

感想は、ひと言で言えば――「寒い。とにかく寒い」。
この経験を踏まえ、私は冬服をさらに数枚追加する決断をした。

1月21日。中国の旧暦で言えば、臘月二十二日。
私は南京大学の南門を出発した。旅の初日、大学のすぐ外にあるガソリンスタンドでヒッチハイクを試みた。
わずか2時間後、ある若い兄さんが私を高速道路まで乗せてくれると言ってくれた。彼はそのガソリンスタンドの従業員だった。

それが、私の人生初の“本当の意味でのヒッチハイク”だった。

彼は高校卒業後ずっとスタンドで働いているという、明るくて熱心な南京出身の青年だった。
彼は車が大好きで、かつては「自分で中国一周したい」という夢を持っていたという。

「昔、俺も君みたいな夢があったんだ。でも、結局一歩を踏み出せなかった。君を見てたら、心が動いたよ。」

彼はそう言ってくれた。

車はおよそ1時間走り、南京の最も外れにある「八卦洲サービスエリア」に到着した。
ここが、私にとって初めての“中国の高速道路サービスエリア”だった。

驚いたのは、その清潔さと広さ。
さらに、上下線の道路のあいだを徒歩で自由に行き来できる構造にも驚いた。

簡単な夕食を済ませたあと、夜8時頃から再びヒッチハイクを試みたが、その夜は結局車を見つけることができなかった。

だが私は、自分にこう言い聞かせた。

これは長期戦だ。だからこそ、生活リズムを保つことが何より大切だ。

そうしてテントを張り、寝袋にもぐりこんだ。

旅の初日は、静かな、しかし希望に満ちた“滑り出し”で終わった。

※注:谷河と、ヒッチハイクに応じた南京の男性

春節を越えて

二日目の昼、私はすっきりと目覚めた。
だが、どれだけ手を振っても、声をかけても、乗せてくれる車は見つからなかった。

ようやく日が暮れかけた頃、三人組の中国人男性が停まってくれた。30代前後の彼らは気さくで、走る車の中でこう語ってくれた。

「俺たちは19歳から働いてきた。今の若いやつらは必死で大学に行ってる。どの世代も、やっぱり戦ってるよな。」

この言葉は、とりわけ印象に残った。
そこには、今の中国社会で生きる若者たちの、静かだが確かな“現実”があった。

その晩、また別の三人組の車に乗せてもらった。
彼らは地元へ春節(旧正月)を過ごしに帰る途中だった。
車内では笑い声が絶えず、空気は和やかで温かかった。

運転席に座る男性が、ふとこんなことを口にした。

「最近の春節は、昔ほど賑やかじゃなくなったよな。」

私は中国語を勉強する際に、《家有儿女(ジャーヨウアルニュ)》というシットコムを何度も観ていた。
そのイメージから、にぎやかで親しみあふれる“春節”の風景を夢見ていたが――
現実は、それとは少し違っていた。

想像と違うことに、少し寂しさを感じた。

その後、ドライバーが腹を押さえて苦しそうにしていた。
数時間の道のりの末、私は「三角元サービスエリア」に到着した。

四日目の朝、空は細かな雨に煙っていた。
そして私は、突然の下痢と高熱に襲われた。
困ったことに、サービスエリアにはほとんど薬が売っていなかった。

五日目、ついに体がもたず、私は近くの町の宿に泊まることにした。
その町は「太和」という、安徽省阜陽市にある小さな町だった。
ここが、私にとって初めて“都市らしい都市”として足を踏み入れた場所だった。

まだ完全には回復していなかったが、ようやくベッドから起き上がれるようになった私は、宿を出て街を少し歩いた。

すると、酔っ払った地元の男性に声をかけられた。
昼の12時を少し回ったくらいだったが、彼の顔は真っ赤に火照り、足取りは千鳥足だった。
子どもを連れて、実家のある太和へ帰省する途中らしく、家への道すらおぼつかない様子だった。

ふらつきながら歩く彼の背中を、小さな子どもが懸命に支えていた。

その光景を見たとき、私は初めて、

「春節」という言葉の“体温”を感じた。

その日の深夜1時ごろ、私は再びサービスエリアで車を待った。
「今日もダメかな……」と諦めかけたとき、一台の車が現れた。
運転していたのは、白髪混じりの60代ほどの男性だった。

彼の目的地は西安、私は途中の洛陽まで行きたかったので、ちょうどよかった。
彼はこう語った。

「福建からずっと運転してきたんだよ。出発したときはTシャツと短パンだったのに、いまじゃダウンを着てる。」

洛陽に近づくにつれ、車窓の外は徐々に銀世界へと変わっていった。
そんななか、彼は突然、息子の話を始めた。

「うちの息子は日本に留学してるんだ。今は日本で仕事を探してる。」

私は一瞬、言葉を失った。
その父親の口調から、日本に対する複雑な感情が伝わってきた。

中国人にとって「日本」とは何なのか。
子どもがその国へ行くことを、どう受け止めているのか。

家族を何よりも大切にする中国文化と、彼の世代が抱える歴史認識――
そのはざまで揺れる気持ちを、私は少しだけ理解できた気がした。

そんな思いに耽りながら、私は旅の第二の都市、洛陽に到着した。
高速道路のサービスエリアではタクシーを捕まえることができなかったため、
従業員用の通路を30分ほど歩いて市街地に入り、なんとかタクシーを拾った。

タクシーの車窓から洛陽の街並みを眺めていたとき、不意に思った。

「あれ……この感じ、京都に似ている」

不思議ではない。
歴史的に見れば、京都はまさに洛陽をモデルにして造られた都なのだから。

友人宅のベッドで、私は久しぶりにぐっすりと眠った。
目が覚めるまで一度も起きず、その安堵に心身がゆるんだ。

翌日、私たちは一緒に、洛陽の世界文化遺産・龍門石窟を訪れた。

これは、シルクロードを通じて仏教が中原に伝来した後に造られた、貴重な遺産である。

巨大な石仏を前に、私は自然と息を呑んだ。
その荘厳な姿は、千年の風雪を超えてなお、静かに語りかけてくるかのようだった。

私は仏教系の男子高校に通っていたことがある。
この場所に立ったとき、言葉にならない「因縁(注:原文のまま)」のようなものを感じた。

龍門石窟を見終え、友人の家に戻ると、
私は人生で初めての「本当の意味での中国の大晦日(除夕)」を迎えることになった。

夕食は、《家有儿女》で描かれるような賑やかさこそなかったが、
家族が一つのテーブルを囲むその温もりには、確かに心を打たれるものがあった。

爆竹が鳴り響くこともなく、太鼓や獅子舞もない。
それでも、静かに集まった人々のあいだには、“家族”の温度が確かにあった。

夕食を終えると、私たちは窓の外に鳴り響く爆竹の音を聞きながら、テレビで「春晩」を観た。

番組が終わると、私たちは手持ちの花火を燃やしながら、「驱邪纳福(邪気払いと福の招来)」を願って火を灯した。

こうして、私は初めて中国で「年越し」を体験した

大年初一(旧暦の元旦)の朝、友人のお父さんが、私に一つの「紅包(ホンバオ)」を手渡してくれた。
これは、私が人生で初めて正式に受け取った「紅包」だった。胸が熱くなった。

私は「中国の正月の空気を肌で感じてみたいんです」と彼に伝えた。
すると彼は、なんの躊躇もなくこう言った。

「それなら一緒に“親戚回り”に行こう。」

私たちは、一軒また一軒と親戚の家を訪ね歩いた。
そこには、無数の親戚たちが集まり、食卓を囲み、おしゃべりし、子どもたちは室内を走り回っていた。

大人たちは湯気の立つお茶を手に、何気ない会話に花を咲かせていた。
その情景は、まさに私がドラマ《家有儿女》で夢見ていた世界そのものだった。

この「春节における親戚回り(串親戚)」という伝統は、文字では決して伝わらない。
実際に体験してこそ、“家族”という概念の奥深さが分かるのだ。

日本の正月と比べても、中国の春節における家族の結束力と、親戚同士の濃密なつながりは、際立っていた。

その後、私たちは洛陽で有名な「白馬寺」へ足を運んだ。
ここは、中国仏教の発祥地のひとつとして知られている。
そして私が通っていた仏教系男子高校が所属していた「浄土真宗」の源流もまた、この地にある。

境内には、インド、ミャンマー、タイ、スリランカといった国々の仏教建築が並び、今では中外の観光客が絶えない名所となっている。

ちょうど大年初一だったこともあり、寺は人で溢れ返っていた。
場所によっては、入るのに1時間近く並ぶ必要があった。

境内のいたるところで、家族連れが祈りを捧げる姿が見られた。
広場には、子ども、両親、祖父母まで三世代が揃って手を合わせる光景が広がっていた。

その人波のなかに立ち尽くしながら、私ははっきりと感じた。

中国人にとって「春節」は、単なる祝日ではない。
それは信仰であり、文化であり、“生きた歴史の継承”そのものなのだ。

龍門石窟にて

日本人が嫌いだと言う中国人が、私を乗せてくれた

昼食を済ませたあと、私は再びヒッチハイクを始めた。
春節期間中ということもあり、高速道路のサービスエリアは車の往来が極端に少なかった。
それでも、わずか30分後、ある男性が車を停めてくれた。

こうして、私はまだ薄明るい早朝に、西安郊外のサービスエリアへとたどり着いた。
これが、私の旅で訪れることになった三つ目の都市だった。

私はその足で有名な観光地「兵馬俑」へ向かった。

現地は観光客でごった返しており、入場には2時間待ちの長蛇の列ができていた。
その光景を見た瞬間、私は数年前に見たあるニュースを思い出した。

「近年、中国では春節を故郷で過ごすのではなく、観光地で過ごす人が増えている。」

まさに今のこの状況が、それを証明しているように思えた。

その日の夜、私は市街地のサービスエリアには戻らず、
「秦漢新城・渭河湿地公園」という場所にテントを張って野営することにした。
静かな川辺の公園、風の音を聞きながら、私はそのまま眠りに落ちた。

翌朝、午前11時半ごろ、鳥のさえずりで目が覚めた。
その日は、SNS「小紅書(RED)」で私をフォローしてくれていた西安在住のファンが「ぜひご飯をご馳走させてください」と連絡をくれた。

彼が私を案内してくれたのは、「漢長安城遺跡」だった。
これは、洛陽の龍門石窟に続いて私が訪れた三つ目の世界遺産だ。

そこは西漢時代の王宮の遺構であり、敷地はとにかく広大だった。
電動の観光カートに乗っても、すべてを回るのに1時間半はかかった。

見学を終えた私は、再び漢城サービスエリアに戻った。
次の目的地である蘭州までは、なんと635キロもある。私は一刻も早く出発したくて、休憩もそこそこにすぐヒッチハイクを再開した。
しかし、いくら手を挙げても、まったく車は止まらなかった。

夜が更け、明け方6時。
体力も限界を迎え、私はついにサービスエリアのビルの前にテントを張り、服を着たまま眠りについた。

そして翌朝8時ごろ――私はけたたましい爆竹の音で目を覚ました。
眠気眼で時計を見て、ようやく2時間しか寝ていないことに気づいた。

だが、その爆竹は春節の祝いではなかった。
それは、サービスエリアの職員たちが私を追い払うために鳴らした音だったのだ。

彼らは箒で私のテントをつつきながら、「ここにテントは張れない」と訴えた。

最終的に協議の末、私はテントを建物前の隅に移すことで了承を得た。
その場所で、ようやくほんの少しだけ眠り直すことができた。

午後2時。
日差しがテントを突き刺すように照りつけ、私はその暑さで目を覚ました。
そのとき、自分の顔の皮膚に異変が起きていることに気がついた。

連日、昼近くまで寝ている生活リズムのせいで、
私は毎日テントの中で数時間も直射日光に晒されていた。
その結果、顔の皮膚は乾燥し、皮が剥け始めていた

さらに、ここ数日間まともに風呂に入っていなかったため、
自分の身体からは明らかな体臭が漂い、テントの中もその匂いで充満していた。

何か大きなトラブルが起きたわけではない。
だが、この数日間の体験は、私にとって「微細だけれど確かな苦しみ」だった。

車は一向に捕まらず、夜が来た。
私はまたも無念のままテントを張り、その夜も眠りについた。

そして翌日も、同じように昼の陽射しで目を覚ました。
すでに、濡れたウェットティッシュで身体を拭き取ることが日課となっていた。

それを済ませたあと、私はまた新たなヒッチハイクを始めた。
正直に言えば、そのときの私は、かなり心が折れかけていた。

そんなときだった。
顔なじみになっていたサービスエリアの職員たちが、笑顔で近づいてきて、
私に一束の爆竹を手渡してくれた。

「加油啊! (頑張って!)」と彼らは言った。

私は爆竹に火をつけた。
その一瞬、張り詰めていた感情が一気に溢れ出し、胸が熱くなった。

そうだ、もう一度、やってみよう。

私は気持ちを切り替え、再び車に向かって手を振り始めた。

すると、まるでそれを見ていたかのように、1台の車が目の前に停まった。

運転席には30歳前後の男性が座っていた。
そして、彼が口にしたひと言が、私の世界を大きく揺さぶった。

「俺、日本が嫌いなんだ。」

最初は聞き間違いかと思った。
だが彼は続けて、こうも言った。

「日本人も、あまり好きじゃない。」

車内の空気が、一瞬で張り詰めた。
私は動揺を隠せず、つい問いかけた。

「じゃあ……どうして僕を乗せてくれたんですか?」

彼は、落ち着いた声で、こう答えた。

「誰かが困ってたら、助ける。それが俺の習慣なんだよ。
相手が誰であれ、それは関係ない。
俺は日本人が好きじゃない。それは変わらない。
けど、目の前で助けを必要としてる人間がいたら、手を差し伸べる――それだけのことさ。」

私は言葉を失った。
その言葉は、一見シンプルだが、深く、重く、胸に響いた

「人を助ける」という行為は、口で言うのは簡単だ。
だが、実際にそれを行うには、自分の時間とエネルギーを割き、何の見返りも求めずに動く必要がある。

多くの人は、「助けるかどうか」を損得で迷う。
だが、彼は“助けること”を習慣にしていた。相手が誰であれ、それが染みついていた。

私は思った。
この信念は、きっとこれからの私の人生のどこかで、
消えることのない“種”として心に残り続けるだろう

彼は、ただ一度、車に乗せてくれた以上のことを私にしてくれた。
私は「善意とは何か」を、彼から学んだのだ。

もしもいつか、彼と再び出会うことができたなら、
私はそのとき、必ずこの言葉を伝えたい。

「あのとき、本当にありがとうございました。」

渭河湿地公園でキャンプしたあとの朝

西へ向かって、さらに進む

――これは、人の心に触れるための「実験」だった。

実はこの旅の最初から、私はある“社会実験”を行っていた。
それは、人間の素直な反応に出会うための、きわめてシンプルな方法だった。

方法はこうだ。
サービスエリアでヒッチハイクをするとき、まず「乗せていただけませんか?」と声をかける。
相手が「いいですよ」と応じてくれたら、次にこう切り出す。

「実は、私は日本人なんです。」

そして、その言葉を聞いた相手がどう反応するかを観察する。
乗せる気持ちが変わるのか、それとも変わらないのか――それを記録していく。

私はこの反応を統計的に記録しようと考えた。

“実際の生活空間において、中国人が日本人にどれだけの拒否感を持っているか”――
それを、言葉ではなく行動で測るためだった。

旅の初期、安徽省の「林東半島サービスエリア」で、私は一人の男性に出会った。
彼は、私が「日本人です」と伝えた瞬間、きっぱりとこう言った。

「それなら無理だ。」

これが、私の申し出を「日本人だから」という理由で断った唯一の人だった。

だが、その後に出会ったある男性――
「日本は嫌いだ」「日本人も好きじゃない」と言いつつも、私を乗せてくれたあの人の姿を思い返すと、
心の中で、ある予感のようなものが生まれた。

「きっと、もう“NO”という人はいない気がする。」

旅の14日目、私は陝西省の「眉県サービスエリア」に到着した。
蘭州までは、まだまだ距離がある。
のんびりしていられない私は、すぐに次のヒッチハイクを開始した。

すると、まるで何かに導かれるように――わずか1分後、一台の車が私の前で止まった。

車の中には、国際カップルが乗っていた。
中国人の男性と、外国人の女性。

彼女は清華大学の出身で、私は以前、北京大学に短期留学したことがある。
そういう意味では、ちょっとした“学姐”だった。

彼らはこう語ってくれた。

「若い頃、私たちもこんな旅に憧れてた。でも結局、一歩を踏み出せなかった。
君を見て、あのときの情熱が少しだけ戻ってきた気がする。」

「宝鶏西サービスエリア」に到着して、私は驚いた。
駐車場には、オフロード車(越野車)がずらりと並んでいたのだ。

ナンバープレートには「甘」(甘粛省)と書かれた車が多かった。
だが、そのどれもが、私を乗せてくれる気配はなかった。

理由は、すぐに察しがついた。

ここは都市ではなく、車に乗っている人たちは、たいてい長距離を走る途中の運転手たちだった。
彼らの車内にはすでに交代要員が乗っており、スペースも、余力も、なかったのだろう。

夕暮れが近づくにつれて、気温はぐんぐん下がっていった。
サービスエリアの外気温は、ついにマイナス2度まで落ち込んだ。

そして私は、気がつけば――
その凍えるような夜の中で、ひたすら車を止め続けていた

朝日が昇ると、私は目を覚まし、
前に三人目のドライバーからもらった瓜子(ひまわりの種)をかじりながら、新しい作戦を考えた。

今回は、サービスエリアのトイレ前に座り込み、手を振って車を止めることにした。
また、30分ごとに駐車場を見回って、声をかけられるチャンスを探した。

そんな中、60代くらいの老夫婦が車を停めてくれた。
彼らは甘粛省の岷県から来た農民工だった。

なぜ私を乗せてくれるのかと尋ねると、彼らはこう笑って答えた。

「どうせ席が空いてるんだから、君がいてもいなくても同じさ。」

彼らの暮らしは質素で、言葉も実に率直だった。
あまり余計なことを気にしない。

これが、中国で初めて“農村出身の庶民”と深く接した瞬間だった。

そして私が強く感じたのは――

彼らは、本当に“さっぱりしている”人たちだ、ということ。

私たちは一緒に鴛鴦サービスエリアへ向かった。
ここから蘭州までは、あと198キロしかなかった。

車を降りた瞬間、今度は私より二つ年上の青年が声をかけてきた。
彼は蘭州で働いており、職場へ戻る途中だったという。

「俺も昔、こういう旅をしてみたかったよ。思い立ったらすぐに出るような旅を。」

その言葉に、私は自然と笑みがこぼれた。
このセリフ、何度も耳にしてきた。
それだけ、“やってみたかった”けど“やらなかった”人が多いのだと気づかされた。

こうして西安を出発してから丸3日。
私はついに蘭州へと到着した。

もう体はボロボロで、今夜はさすがにテント泊を避けたいと思った。

私は近くの网吧(注:ネットカフェ)へ向かった。
なんと“お泊まりパック”が20元(注:日本円約400円)という破格。
まさに天国だった。

暖房の効いた回転チェアに体を沈めると、私は満足感に包まれたまま深く眠りについた。

蘭州。私にとって、この旅で訪れる四つ目の大都市
そしてここで、私には四つのやるべきことがあった。

  • 蘭州水車を見ること
  • 黄河と中山橋を見ること
  • 白塔山に登ること
  • 本場の蘭州牛肉麺を食べること

最も驚いたのは、この都市の背景に、連なる雪山がそびえていたことだった。

まるで中国西部の高原都市にいるような感覚。
“北方都市”というステレオタイプが一気に崩された。

私はまず、バスに乗って「蘭州水車園」へ向かった。
しかし、外国人である私は、AliPayで交通カードを登録できなかった
バスの中で立ち尽くしていると、見知らぬ女性が迷わず私の分の運賃を支払ってくれた。

その一瞬の優しさが、私の心をじんわりと温めた。

水車園に着くと、黄河沿いに並ぶ巨大な水車群が出迎えてくれた。
そのスケールと造形美に、私は圧倒された。

次に向かったのは「中山橋」。
この橋は、ドイツ、アメリカ、中国の三国が共同で建設した百年橋であり、「黄河第一橋」として名高い。

橋の下には黄河の濁流がうねり、橋の上には人々がひしめいていた。
その名にふさわしい壮観な光景だった。

橋を渡ると、すぐに「白塔山」が見えてくる。
山頂には白い仏塔がそびえ立っていた。

私は山の麓にある小さな露店に荷物を預け、登山を開始した。

およそ30分後――
山腹から見下ろすと、足元には黄河が流れ、傍らには仏塔、前方には高層ビルと雪山が同居するスカイライン

その景色はまるで、“黄河版のマンハッタン”のようだった。

夕日が沈むころ、私は下山して荷物を取りに戻った。
だが、露店はすでに閉まっており、店主の姿もなかった。

焦って店の前を行ったり来たりしていると、
通りがかりの女性が声をかけてくれた。

「荷物を取りに来たの? 店主さんが交番に届けたって。ドアに紙が貼ってあるよ、見て。」

見ると、ドアに貼られた袋の中には、手書きのメモが入っていた。

「荷物は察務室に届けました」

それを読んだ瞬間、私は心から思った。

中国を西に進めば進むほど、人の温かさが濃くなっていく――そんな気がした。

「荷物は察務室に届けました」

荷物を無事に取り戻した後、
私は蘭州市内で看板メニューの蘭州牛肉麺を食べた。

その日の夜12時頃、再び蘭州北サービスエリアへ戻った。

この夜、私は提出期限のある課題に追われていた。
指先は凍えるほど冷たく、キーボードを打つのも一苦労だった。

すると、若いドライバーの青年が声をかけてくれた。

「ここの‘司机之家(シージージージャ)’っていう休憩室、ベッドはないけどソファと暖房があるよ。
夜なら入って暖を取っても大丈夫。」

それは、まさに天からの助けだった。

私はその部屋でダウンコートと三重の綿ズボンを脱いだ。
久しぶりにまともに服を脱いだことで、身体が解放された気がした。

机に向かって座ったとき、ようやく思った。

「部屋に身を置き、心もようやく落ち着いた」

翌朝、私はその温かな部屋のソファで静かに目を覚ました。
今日の目標は、ここから934キロ離れた敦煌だ。

だが多くのドライバーは口を揃えてこう言った。

「敦煌方面へ行く車は少ないよ。このサービスエリアはほとんど通らないし。」

私はその日、出会う人すべてに声をかけた。
だが、夕方になっても目的地に向かう車は見つからなかった。

それでも、つらくはなかった。

このサービスエリアには暖房があり、ソファがあり、屋根があった
おかげで、私は穏やかな夜を、安心して過ごすことができた

ついに、車は現れた。
おそらく私はこの場所に長く滞在していたせいで、
サービスエリアの職員たちが「行ってらっしゃい!」と手を振って送り出してくれた。

私を乗せてくれたドライバーは、私より2歳年下の青年だった。
新疆へ戻って、仕事に復帰する途中だという。

車は西北へ向かって走り、2時間ほどで安門サービスエリアに到着した。

最初、この地名には特別な印象はなかった。
だが、車を降りた瞬間――その場の空気がまるで別世界だった。

建物の窓や柱にはチベット様式の彫刻が施され、
カラフルな色使い、そして看板にはチベット文字が並んでいた。

ここは標高3500〜4000メートルの地点にある
とあるチベット族自治県内のサービスエリアだった。

私は文化的な衝撃を強く受けた。
建築、衣装、言語――どれも中原とは明らかに異なる。

こんな特別な場所で短時間でも滞在できたことが、ただただ嬉しかった。

だが、幸運はそこまでだった。

その夜、次の車はついに現れなかった。

深夜3時。
気温はマイナス17度まで下がった。

私は数枚のプラスチック椅子を並べてベッド代わりにし、
寝袋にくるまり、角の隅で丸くなって眠ろうとした。

外には、寒風、星空、静寂の高原。

起きてからの第一の行動は、風呂に入ることだった。

私は10元を支払い、サービスエリアのシャワー施設へ向かった。

熱いお湯が体に流れた瞬間――
思わず涙が出そうになるほど、心と体が温まった。

だが、洗い終えて出てくると、今度は肌の調子が急激に悪化していた

おそらく、皮膚を守っていた皮脂が洗い落とされ、
乾燥した高原の空気にさらされたせいで、皮膚がひび割れ、剥けてしまったのだ。

施設の外に出ると、目の前に広がっていたのは――馬牙山

その標高は4447メートル
富士山よりも高い山が、まるで神のごとく聳え立っていた。

頂上には陽光が差し、雪面がまばゆく輝いていた。

私はその場から動けなかった。
言葉にならない衝撃が、全身を包んでいた。

北京ー新疆高速道路の途中、そこには、谷河が生涯忘れない雪山の風景があった

終点

「ウルムチまで乗せてください」と書いたボードを掲げながら、私は今日も車を待っていた。

すると、一台のSUVが目の前で停まった。
運転していたのは、甘粛省出身の漢族の男性だった。

彼は家族と一緒に故郷で旧正月を過ごし、今まさに新疆の勤務先へ戻る途中だった。

私は訊ねた。

「どうして上海とか深センとか、大都市に行かないんですか?」

彼は笑って、そしてまっすぐに答えた。

新疆が好きなんだよ。
「まるで女の子を好きになるみたいにさ。ただ、好きなんだ。それだけ。」

その言葉を聞いて、私は思わず笑みがこぼれた。
この世でもっとも心に響く“理由”というのは、説明なんていらないものなのだ。

この夜、気温はなんとマイナス20度にまで下がった。

夜明け前、寒さで目が覚め、寝袋の中で震えながらも、
心の中では妙な高揚感があった。

「旅も、もう三分の二を越えた。ゴールが近い。」

疲れ切った身体とは裏腹に、神経はじんわりと目覚め始めていた。

私は着込んだ服をさらに体に巻きつけ、
サービスエリアの敷地を歩き回って体を温めた。

その頃、駐車場では多くの車が動かなくなっていた。
どうやら寒さのせいでエンジンが凍結してしまったらしい。

人々は車のボンネットを開け、エンジンに熱湯をかけたり、
太陽が昇るのを待っていたりと、皆それぞれのやり方で対処していた。

その日も、私はトイレの前でヒッチハイクを続けていた。
そこへ停まったのは――数百万元はすると思われる超高級SUV

「今、世界一周してるんだ。次の目的地はフランスさ。」

そう言って笑ったのは、2台のSUVで旅をしている兄弟のうちの1人だった。

彼らは快く私を車に乗せてくれた。
そして運転手のひとりは、英語圏への留学経験があるらしく
その語り口には世界に開かれた視野が感じられた。

それは、私が人生で初めて乗った本格的な高級SUVだった。
ゴビ砂漠を走るときの安定感と走破性能の凄まじさには、ただ驚くばかりだった。

さらに驚いたのは、彼らの車にはナンバープレートが2枚もついていたことだ。

その一枚は、「救援」の特別なプレート。
これは、無人地帯で他の人を救助するための専用車両の印だという。

つまり、彼らは自分たちの旅のためだけでなく、砂漠で困った人を助ける使命感を背負っていたのだ。

私はその姿に心を打たれた。
そして、静かに心に誓った。

「いつか、自分だけのオフロードカーを持つぞ。」

進行方向の都合で、私は敦煌の手前にある瓜州県で車を降りた。
そこは一面に広がるゴビ砂漠。
その荒涼とした大地の中央に、「大地の子」という孤独で荘厳な彫刻がそびえ立っていた。

この彫像は清華大学美術学院の彫刻教授によって制作されたものだという。
まるで大地から生え出たかのような姿で、頭を高く掲げ、どっしりと構えたその様は、
まさにこの土地の象徴のように感じられた。

彫像の周囲のゴビには、驼绒藜Ceratocarpus latensトゥオロンリー)と呼ばれる植物が生えていた。
私はそれにそっと触れてみた――「パリッ」と音を立てて砕けた。

乾燥しきったその質感は、まるで植物ではなく石のようだった
その瞬間、私はようやく実感した。

「ああ、いま自分は本当に“砂漠地帯”にいるんだな」

その後、私はいつものようにヒッチハイクのボードを掲げて車を待った。

そこへ現れたのは、近隣に住む親切な中年の男性だった。
彼は快く、次のサービスエリアまで乗せてくれると言ってくれた。

そうして、私は布隆吉サービスエリアに到着した。
ここからウルムチまでは残り1038キロ

だが、その夜はあまりにも寒かった。
吹き付ける風はまるで刃物のように鋭く、
その日はもうヒッチハイクをする気にはなれなかった。

私は自分に言い聞かせた。

「残りの道は、明日頑張ればいい。」

寝袋に身を包み、サービスエリアの屋内ベンチで横になり、
刺すような寒さと静寂のなかで、いつしか眠りについた。

翌朝、気温は依然としてマイナス16度
私は霜のついた寝袋の中で目を覚ました。

そのとき、ふとある思いがよぎった。

「これが、最後の一台になるかもしれない。」

私は久しぶりに人々の中に入って行き、ひとりずつ尋ねた。

「南京からここまでヒッチハイクしてきたんですが、
ウルムチまでたどり着けると思いますか?」

誰もが、迷うことなくこう答えた。

「行ける、絶対に行けるよ!」

その何気ない肯定の言葉に、胸がじんわりと熱くなった。

ちょうどそのとき、サービスエリアで顔なじみになっていたスタッフの一人が、
そっとお粥の入った朝ごはんを差し出してくれた。

湯気の立つ粥をすすりながら、私は心から思った。

「よし、もう一度立ち上がろう。」

そして、私は再び紙のボードを手に、旅の「最後の一台」を探し始めた。

約2時間後、一台の車が目の前に停まった。
運転していたのは20代の青年。甘粛省の出身で、
現在は新疆の中学校で美術教師をしているという。私たちは車で北上し、やがてハミ(哈密)サービスエリアに到着した。

そこはまるで市場のような賑わい
民族衣装を身にまとった人々が行き交い、
大きな羊肉の塊、骨付きのバーベキュー、焼き包子、手づかみご飯、ナン、ヨーグルト、ミルクティー……
辺り一面に広がる香ばしく濃厚な匂いに、私は圧倒された。

食事のあと、再び車に乗り込んだ。
標高が上がり、気温がぐんぐん下がっていく中――

山々の合間に、巨大な雪の虹(スノーボウ)が現れた。

それは私にとって初めて見る「雪の中の虹」だった。
雨のあとではなく、雪景色のなかに浮かぶ虹

まるで童話の世界に迷い込んだかのようだった。

時刻はすでに夜の7時半。
だが、空はまだ白昼のように明るかった。

南京の友人に電話すると、こう言われた。

「新疆と東部では、2時間の時差があるんだよ。」

だが、私がそこで感じたのは「時差」ではなく、
この国の広大さそのものだった。

2025年2月11日、午前0時57分。
私はついにウルムチのサンピン(ウルムチ三坪)サービスエリアに到着した。

涙が出ると思っていた。
いや、正直言えば――地面に膝をつき、泣き叫ぶ自分の姿さえ想像していた。

だが、その瞬間、私の心は驚くほど静かだった。

この旅のなかで、私は数え切れないほどの体験をした。

吹雪の夜にテントで震えた日。
下痢と発熱で動けなくなった日。
荷物を失い、不安と感謝が入り混じった瞬間。
そして、何より――

善良な「中国の普通の人々」の姿に、何度も心を打たれた。

人生で初めての経験が、いくつもいくつも積み重なっていった。

私は、ただ「ヒッチハイク」をしたわけではない。
ある民族の、肌理(きめ)にまで触れた旅だった。

午前2時、ある少数民族の友人が迎えに来てくれた。
私は彼の家に3日間滞在し、本格的な「新疆での生活」が始まった。

旅の終わりに、私は帰路についた。

帰りは緑皮車(りょくひしゃ)と呼ばれる、昔ながらの長距離列車。
ウルムチを出発して、56時間かけて南京へ戻る。
しかも無座チケット
――つまり、座席なしの立ち乗り。

車窓から見える風景は、
私が歩いてきた街のひとつひとつ。

まるで映画のリプレイのように流れていく。
そして、記憶の中に、静かに沈んでいった。

29日目、午前1時。

南京大学・仙林キャンパス南門。
ここが私の旅の原点だった。

旅の最初に、私は一つの「社会実験」を行うと決めていた。

サービスエリアで、ヒッチハイクのボードを掲げながら尋ねる。

「私を乗せてくれませんか?」

もし「いいですよ」と言われたら――
そこで初めて、私はこう告げる。

「実は、私は日本人です。」

その反応を見る。

その事実を知ったあとでも、
はたして相手は、乗せてくれるだろうか?

結果はこうだった。

全17人中、1人だけが「乗せない」と答えた。
つまり、94.1%の人が「日本人でも、関係ない」と言ってくれた。

これは世論調査でもなければ、政府のアンケートでもない。
市井の生活のなかで、人と人とが出会ったときの、現実の反応だ。

私にとって、それはどんな統計よりも尊い。
なぜなら、それは――

私が自分の足で歩き、目で見て、心で感じた「中国」だったから。

南京大・仙林キャンパスの南門、旅の起点に立つ谷河

– END –
制作:中国青年报・中国青年网

学爾時習之、不亦悦乎? 有朋自遠方来、不亦楽乎? 人不知爾不愠、不亦君子乎?

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