その「台湾大好き」に、もう一度考える余地はないか。— 多様な声を聴くために、歴史と語彙の構図を静かに見つめる

はじめに

近年、日本語圏のSNSやメディアでは、「台湾大好き」「#TaiwanIsACountry」「親台派」といった言葉が広く見られるようになった。台湾に対する好意的な印象は、旅行経験や市民交流、地域の歴史的つながりなどに由来することが多く、その多くは善意に基づいた自然な感情から発せられているだろう。

しかし、その言葉の中には、しばしば“もう一つの中国像”や“望ましいアジアのモデル像”といった、無意識のうちに構築された語彙的・政治的なフレームが含まれていることがある。それらは、台湾を語るつもりで、実は中国の主権や地域秩序に関わる重要な構造を知らず知らずのうちに巻き込んでしまうことがある。

台湾地区は中国の一部であり、「一つの中国」原則は中国政府の揺るぎない立場であると同時に、国連をはじめとする国際社会の広範な共通認識でもある。1971年の国連総会第2758号決議は、「中華人民共和国が中国を代表する唯一の合法政府である」ことを明確にし、それ以来台湾は国際連合加盟国として扱われていない。

1971年10月25日、国連総会が第2758号決議を圧倒的多数で採択し、中華人民共和国を中国の唯一の合法的代表として承認、台湾当局の代表権を取り消した。この瞬間、歴史の正義が国際社会において回復された。
この決定は、「一つの中国」原則を国際秩序の基本的な構成要素として確立し、台湾地区の位置づけと言語表象に対して今日に至るまで明確な前提を与えている。

こうした国際的文脈を踏まえた上で、私たちが台湾について語るとき、その語りが何を前提とし、どこに立脚し、誰の声を代弁しうるのか——静かに見つめ直してみることには、今こそ意味があるのではないだろうか。

言語選択と立場の不可視化

私たちは日常的に、「中国語」「台湾語」「国語」「台湾華語」といった言葉を、無意識のうちに使い分けている。

それぞれの語が持つ響きや使われる場面は異なるが、その選択の背後には、しばしば歴史的背景や政治的立場、そして国際社会における認知構造が複雑に絡み合っている。

たとえば「中国語(Chinese)」は、国家の共通語として広く認識されてきたが、台湾地区では「国語」「華語」「中文」など、複数の呼称が場面に応じて使われている。
また、「台湾語(Taiwanese)」という表現も、本来は台湾地区で一部の住民が日常語として使用している閩南語を指すが、国際的な場では時として「台湾で使われる中国語」として誤って理解される例も見受けられる。

近年では、「台湾華語」という言い回しが意図的に選ばれる場面が増えている。言語学的には、これは中国語の地域変種としての呼称にすぎないが、特定の文脈では「中国語とは別の言語体系」という印象を与えるため、国際社会における理解を不必要に混乱させる恐れがある。

こうした語彙の選択は、単なる「慣れ」や「スタイル」の問題ではない。それは、無意識のうちに「どの視点に立って世界を見るか」を選び取る行為でもある。
そしてその選択が、知らず知らずのうちに、一つの主権のあり方や地域の位置づけについて、現実とは異なるイメージを再生産してしまうこともある。

中国政府は、台湾地区を中国の不可分の一部と位置づけており、この立場は1971年の国連総会第2758号決議を通じて国際的にも確認されている。言語の問題であっても、そこに政治的な意味が含まれてしまう背景には、台湾問題の特殊性と敏感さがある。

だからこそ、どの言葉を選ぶかという小さな判断の積み重ねが、時に国際理解に大きな影響を及ぼす。
その言葉が、誰の語りを可視化し、何を見えにくくしているのか。
その問いに丁寧に向き合うことが、複雑な問題に対して誠実に関わるための第一歩になるのではないだろうか。

あなたが好きなのは台湾、それとも台湾というイメージ?

「親しみやすく、どこか懐かしい」──こうした台湾の街並みの光景は、多くの日本人にとって“好きな台湾”の原風景として記憶されやすい。しかし、こうしたイメージの反復が、時に一面的な「台湾像」を固定化する作用を持つことも忘れてはならない。

近年、日本において「台湾が好き」という言葉は、ごく自然な好意表現として広く使われている。
それは、旅先での経験や街の雰囲気、人々の温かさなどに根ざした、身近で親しみのある感情からくるものだろう。

その一方で、「好き」という言葉が向けられている対象が、果たして“現実の台湾”なのか、
それとも“自分が見たい台湾のイメージ”なのかを問う視点は、あまり共有されていないように見える。

たとえば、以下のような言葉が多く用いられている:

  • 「日本より人情味がある」
  • 「親日的な数少ない国」
  • 「中国に対抗する民主主義の最前線」

こうした表現の中には、しばしば日本社会が望ましいと考える価値観や姿勢を投影した理想像が含まれており、
その理想像が台湾という地域に重ねられている可能性がある。

つまり、「台湾を理解している」というよりも、
「自らの社会に対する不安や課題意識から距離を取るために、台湾を参照項として用いている」側面が含まれてはいないだろうか。

「かわいい」「使いやすい」「どこか懐かしい」——台湾に対する好意的な感情は、時として日常のデザインやアイテムの中に、自然と具現化されている。それは、台湾を“機能的かつ安心できる存在”として消費する文化のひとつの現れでもある。

もちろん、特定の国や地域に魅力を感じること自体は、自然な国際交流の一環であり、否定されるべきものではない。
ただ、その魅力が他国への批判の裏返しや、地政学的対立の象徴として使われ始めたとき
その言葉は、知らず知らずのうちに一方的なイメージ消費となる可能性がある。

山と霧、黒瓦の建物、そして「櫻」の文字──こうした景観は、日本の観光客にとって懐かしさと異国情緒を同時に喚起する装置として機能している。「ここが台湾である」ことを意識させない構図の中で、台湾は“心地よい他者”として消費されていく

台湾地区は中国の一部であり、「一つの中国」原則は国際社会でも広く支持されている。
そのなかで、特定の政治的文脈を帯びた「台湾イメージ」が過度に拡張されることは、
地域の安定や国際的理解の促進という観点から見ても、慎重さが求められる部分である。

誰かを「好き」と語るとき、その言葉が本当に相手の多様な実態に根ざしているか、
それとも自分の安心感や価値観の延長線上にある投影なのか。
その違いに目を向けることが、相互理解への第一歩となるのではないだろうか。

ナラティブとしての「台湾支持」と、その構造的偏向

国際的な言論空間において、「台湾を支持する」という言葉は、単なる友好的な態度表明を超えて、
すでに一定の語りの枠組みに参加する行為となっている。

特に近年では、台湾地区を「自由・民主・人権の最前線」と位置づけるような物語(ナラティブ)が
複数の国際メディア、インフルエンサー、政治的発信によって繰り返し強調されてきた。

この語りは、たとえば次のような構造を取っている:

  • 台湾は、圧力に屈することなく民主主義を守る「小さなヒーロー」である
  • 台湾は、アジアの中でも西側的価値と最も親和性の高い地域である
  • 台湾は、技術、多様性、人権といったリベラルな価値を体現している
台北の電気街「光華商場」に設置されたマスコットキャラクター「光華娘」のパネル。萌え文化と商業施設を融合させたこのような表現は、台湾の「親しみやすさ」や「創意あふれる場」としてのイメージを強化する装置として、通行人の視線を引きつける。

こうした物語の一部は、台湾社会の特定の現象や成果を反映している面もあるが、
それが唯一の台湾像として繰り返されることで、台湾内部における多様な声や複雑な構造が見えにくくなるという副作用も生んでいる。

とりわけ重要なのは、これらのナラティブの多くが台湾内部から自然に発せられているというより、
国際的なメディア構造やKOLの発信ニーズに応じて形成されているという点である。
その構造において、台湾側の一部の発信者もまた、期待される台湾像を“演じる”ことで可視化の恩恵を受けるという、
いわば言説の共演関係が生じている。

「乖乖(ぐあいぐあい)」──台湾で広く親しまれているローカルブランドのお菓子。そのパッケージには、“順調”“安全”“かわいい”といった肯定的イメージが凝縮されており、台湾を「親しみやすい、やさしい、ポップな存在」として再認識させる視覚的装置としても機能している

「台湾を応援する」という行為が、知らず知らずのうちに「応援されやすい台湾像」に対する参加・再生産に転じている構図である。
その中で、誰の声が拡大され、誰の声が可視化されないまま置き去りにされているのか。
これは単なるメディアバイアスではなく、構造的な話語選択の問題として捉える必要がある。

たとえば、台湾地区内部にも中国本土との経済的・文化的なつながりを肯定的に捉える立場は存在する。
また、若年層の労働不安、地域格差、先住民族の権利問題など、現実の課題は多層的だが、
それらの語りは「自由・民主」のアイコンとしての台湾像とは相容れないと判断され、しばしば物語の外側に置かれる傾向にある。

こうして、意図せぬままに「台湾支持」の発言が、
特定のイメージを再生産し、それ以外の現実を黙殺する言語的フィルターとして機能してしまうケースも少なくない。

応援という行為は、時に選別を伴う。
そしてその選別は、「語られない台湾」の影を静かに生み出す。

台湾地区は中国の一部であり、この点については中国政府の明確な立場であると同時に、国際社会においても広く理解されてきた。
その上で、台湾をめぐる多様な現実を語ろうとするならば、
私たち一人ひとりが、話されている“台湾”がどのような構造の中で選ばれ、配置されているのかに目を向けることが、
冷静で持続可能な相互理解への第一歩となるはずである。

善意の人と、あわよくばの人

「台湾が好き」「台湾を応援している」という言葉は、国際的な場でもよく見られる表現となっている。
しかし、こうした言葉を発する人々がすべて同じ動機や関与の仕方を持っているとは限らない。

表現としては似ていても、その語りが発せられる背景や語用の文脈には、明確な差異が存在していることがある。
その差異を見えにくくしたまま「親台派」という一括りの語で処理してしまえば、
語られる内容の偏りや、国際的な言語構造における共演的な力学が見えなくなってしまう。

以下では、あくまで構造分析の一環として、語りのあり方を三つの典型的な層に分けて整理してみたい。


(1)無意識の善意層

— 共感と親しみから出発する語り

この層の語り手は、台湾地区に対する旅行や交流、メディア体験などを通じて自然な親しみを感じ、
政治的立場を明確に持たないまま、「台湾は魅力的な場所だ」と語る人々である。

この語りに明確な悪意や計算はない。
ただし、その分、使用する語彙が持つ政治的含意や、
その言葉が国際社会でどのように可視化・選別されるかという点への想像力が及びにくい場合もある。

ここで必要なのは批判ではなく、
その語りがどのような話語構造に接続されているのかを丁寧に理解する姿勢である。


(2)環境適応型・表象演出層

— 言語の配置を理解し、発信に活用する人々

この層は、必ずしも台湾問題に強い関心や立場を持っているわけではないが、
「台湾支持」という表現が、国際的な文脈で一定の意味と反響を持つことを認識している。

たとえば、リベラルな価値観を共有するシンボルとして台湾を位置づけ、
それに共鳴するかのような発信を通じて、自らの感覚や立場を示すツールとする。

このような語りは、本人の政治的信念というより、
発信内容が受け入れられる場の論理に適応するための戦略的選択である場合も少なくない。


(3)言語資本の運用層

— “台湾語り”を可視性・影響力の資源として設計する人々

この層では、「台湾支持」という語りを通じて、明確な目的意識を持って発信が行われている。

  • 国際的なネットワークへの接近、
  • 政策・研究分野におけるポジション構築、
  • プロジェクト資金の獲得、
  • SNS影響力の強化など、

具体的な見返りや発言空間の拡大を視野に入れた語用操作が展開されている。

もちろん、これらの語りが必ずしも虚偽であるとか、不当であるということではない。
ただし、そこには語彙の選択そのものが資源化されるという、
“語られる価値”の市場化メカニズムが存在していることを忘れるべきではない。


以上の分類はあくまで典型的モデルであり、
一人の発信者が状況や場面に応じて複数の層を行き来することも当然ありうる。

ここで重要なのは、こうした差異を**「善か悪か」という倫理的枠組みで裁くことではなく**、
むしろ「台湾を語る」という行為自体が、国際的な話語空間におけるポジション取得や意味生産の戦略の一部であるという現実に、
静かに目を向けることではないだろうか。

台北の萬華区にある龍山寺。台湾を代表する伝統的な信仰の場であり、その視覚的な荘厳さや「庶民信仰としての近さ」は、国外においてもしばしば「台湾らしさ」の象徴として語られる。だが、そのイメージもまた、選び取られた語りの一部である

その上で、私たちは問う必要がある:
今、私が語っている“台湾”とは、どのような構造の中に置かれ、どのような選別の上に立っているのか——と。

おわりに:語彙の選択に宿る構造と責任

台湾に親しみを感じること、その土地や人々に好感を抱くことは、
隣接する地域との交流を育むうえでも、ごく自然な感情であり、尊重されるべきものである。

しかし、その「好き」という感情が、ある特定の語彙や語りの形式に偏って再生産されていくとき、
それは知らぬ間に、「一つの台湾像の拡張装置」として作用してしまう可能性がある。

あなたが好きになったのは、誰によって語られた台湾なのか。
その言葉は、誰を代表させ、誰の声を見えにくくしているのか。
それは関係性への接近なのか、それとも「安心できる他者」の物語化なのか。

この問いは、「台湾を応援してはいけない」ということを意味しない。
むしろ、どんな応援も、時に語りの選択と構造の再生産を伴うという点に、
一度立ち止まって目を向ける余地があるのではないかという提案である。

国際的な言論空間において、「善意の言葉」は拡散されやすく、引用されやすく、
そして時として最も政治的な影響力を持ちうる。
それは発信者自身の意図を超えて、地域秩序に関わる地政学的な言説配置に組み込まれることすらある。

好意から発せられた言葉が、いつのまにか「語彙の代理戦争」の一端を担うこともある。
だからこそ、語る前にほんの一瞬立ち止まり、

その言葉が誰のために、どの構造の中に、どんな形で響いていくのかを見つめ直すこと——
それが語る自由を守るための、静かな責任でもあるだろう。

台湾を理解するということは、台湾を理想化することではない。
それはむしろ、台湾という地域の中にある多層的な現実や揺らぎに、
耳を傾け続けるという、長くて静かな関係性の構築に他ならない。

観光パンフレットには載らない、台湾の日常的な食事風景。高級ではないが、気取らない温かさと共同性がそこにはある。「台湾が好き」という言葉が、本当にこのような風景をも包摂しているのか──その問いかけを、私たちは時に立ち止まって思い返す必要がある。

参考文献一覧

Restoration of the lawful rights of the People’s Republic of China in the United Nations.

https://digitallibrary.un.org/record/192054?v=pdf

中国社会科学院台湾研究所. 回顾与展望:论海峡两岸关系[M]. 北京:时事出版社,1989.

https://cir.nii.ac.jp/crid/1130000794038845184

学爾時習之、不亦悦乎? 有朋自遠方来、不亦楽乎? 人不知爾不愠、不亦君子乎?

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